(記/minaco.)
あれから4年──。
フットボール界では4年一昔。ワールドカップのサイクルが1つ巡り、所属クラブを二度変えても、過去は未だに鮮明なのだ。
4年前の夏、ルートがユナイテッドを去る時は不毛な事ばかり思った。タブロイドの流す憶測をしたり顔で語られるのは嫌だけれど、単に「よくあること」で済まされるのもまた辛い。勿論ユナイテッドでは「またもや」な出来事とはいえ、ただ悲しんでくれる人が居て欲しかった。ワタシは傷口に塗る薬を探し、やがて何度も検証した末に、特効薬じゃないが痛みを和らげる薬を見つけた。
2006年ドイツW杯直前、オランダNOS TVが渦中のルートを追ったドキュメンタリー番組。タイトルは“Van The Man”。
以下は、オランダのファンが英訳してくれたのを元に再現したものです。正味50分程の内容なので、8回に分けてお送りします。今更需要など無いかもしれないけど、このタイミングが相応しいかなとも思うので、シーズンオフの間にひっそりと。もしも誰かに届いてくれたら嬉しい。
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01
【オランニェの練習場を見下ろす場所で、レポーターが語る。】
ルートはワールドカップに向かっています。彼にとって初めてのワールドカップ。そしてキャリアのクライマックス…恐らくクライマックスとなるであろうワールドカップです。
この5年間、ルートは多くの人々に賞賛されてきました。彼はユナイテッドのトップスコアラー、世界で最も有名なチームのです。しかし、ルートとクラブのフェアリーテイルは終わろうとしてるように見えます。ユナイテッドの偉大なボス、サー・アレックス・ファーガソンは彼をベンチに追いやりました。
この数ヶ月、我々はマンチェスターで2度ほど彼と話しました。彼は我々にオールドトラッフォードを案内し、ファンと永遠に続く絆について語り、そして自分の書いたノートを読んでくれたのです──
“Van The Man”
B.G.M.♪Editors - Munich
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【自宅のダイニングテーブルにて、自分の書いたフットボール日記を読むルート。*日記の内容はコチラ を参照。】
最高のストライカーは、北ブラバント州の人口600人にも満たない小さな村に生まれた。Geffenには“Nooit Gedacht” (=Don't think it)という、美しい名前のフットボールクラブが1つだけあった。
【フットボール場にて。オレンジの9番を付けた小さな子供達が、ボールを蹴っている。】
“De Biezen kamp”、そこがルートの初めてゴールをした場所。Nooit Gedachtでは、この村の選手が皆プレイする。世代から世代に渡って。ルートの祖父、Hasje van Niftrikもここでプレイした。そして彼の父、Tiny van Nistelrooijも。
「ちょうど今、仕事中でね。設備の装備と、今日はナイメーヘンでいくつか漏れを直してきたところなんだ」
(* 父親の仕事はボイラー工)
──ここはあなたの住まいで、ルートが育った所?
「私が住んでて、子供らが育った所だよ。彼らがこのポーチでフットボールをしてた時の思い出が一杯ある。そこのガレージのドアに傷が付いてるのが見えるだろう?子供達はいつもここで、近所から来た他の子達とフットボールしてたんだ」
Kapelstraatから来たファン・ニステルローイ一家には、3人の子供が居た。ルートは長男、その下に弟Ron、妹のAnekkeが末っ子。Tinyは我々にルートが初めてフットボールの試合をした時の事を話してくれた。
「良い思い出のひとつだよ。せがれが5歳の頃、規則でまだ試合が出来なかった。6歳になるまではね。でも私が年少チームを見てた時、ルートは一緒に付いて来たんだ。ユニフォームも何も持ってなかったのに。やって来て、サイドラインの私の横に座り込んで、チームと一緒にプレイしたそうだったんだよ。でも私は、そりゃ無理だって解ってるし…。
あいつがずっと横に居続るもんで、私は後半の間、プレイさせる事にしたんだ。こんな小っさいガキがプレイしたいだとさ!」
──プレイさせたんですね…。
「いつもプレイしたよ…
あいつは監督がベンチに置いたら、未だにハッピーじゃないね」
〜続く〜