(記/なるほ堂)
【※追記あり(10月23日)】
1
桜山問題、即ち「桜山界隈商店街」有する桜山神社参道地区の
「勘定所復元構想(※)」について続報。
(※実際は、観光案内所や物産品販売の機能を持つ「勘定所風の建物」を建設する構想)
昨日10月29日、市役所内にて行われた
「史跡盛岡城跡保存管理計画に伴う説明会」に併せ、同地区にある東大通商業振興会より、署名に拠る反対活動を開始する旨が発表がされた。署名の要旨は以下。
・盛岡市策定の「桜山神社参道地区の将来像について」および「勘定所・
土塁・門・堀」計画案を白紙撤回すること
・桜山参道地区を公園緑地化することをやめ、都市計画を現状に即した商
業地域指定に変更すること
注目すべきは二点目。単に「現在の市構想に反対」という名目だけでは、例え数は集まっても、次なる市役所お手盛りの「代案」「新案」に対しては、効力の無い署名になりかねないとの危惧があった。それ故、ある意味リスク承知で「都市計画を現状に即した商業地域指定に変更」という点に踏み込んだ勇気に、どうか皆様も拍手を送っていただきたい。
【署名用紙は
こちらからDL出来ます】
この点について、しかし市都市整備部の新沼正博部長は
「文化庁からの指導」という名目を上げ、昨日の説明会でも過去の発言の立場
「史跡である以上、(桜山商店街が存在する)現状のままいうわけにはいかない」
「史跡を構成する主要な要素以外のものは史跡以外に移転を図るとの方針は維持する」
に変化の無い旨を述べた。だが──
果たして、この市側の言い分に「大義」はあるのだろうか?
2
「桜山商店街は残って欲しいけど、でも文化庁指定の国の史跡だから…」
商店街存続を希望する方々の中からも、このような声を聞く。
しかし、国の史跡指定は決して「動かせざるもの」では無い。他所に過去の例を探すまでもない。この桜山商店街に隣接する「東大通商店街」は、昭和二十八年、国の史跡であった盛岡城址内の
「亀ヶ池」を埋め立てて建設された。
勿論、正規の
「史跡指定の解除」を経て。
以下、
『盛岡の今と昔』(発行:盛岡市公民館/昭和三十九年発行)より。
【写真1】埋め立て前の盛岡城の内堀「亀ヶ池」
(桜山神社側からサンビル方向をのぞんだもの/写真点線内が現在の東大通)
【写真2】亀ヶ池の埋め立てと、それに伴う史跡解除を伝える当時の新聞ほか
東大通りの開通
昭和二十八年、文部省指定史蹟盛岡城址の亀ヶ池の一部を埋め立てて新道路を建設した。
この問題について、当時市議会ではその是非について公聴会を開き遂に史蹟解除を申請、街路を造成することに決定した。
更に、
『盛岡の今と昔』より引用する。
大通り地区の発展
戦後の二十八年、大通商店街の経済効果発展の面目躍如たる亀ヶ池埋め立てによる新市街、東大通りの誕生は盛岡駅から肴町方面に至る河南・河北を結ぶ最短幹線道路として急激な利用の増加に伴なう近代的商店街・歓楽街の発展を約束させた画期的なものであった。
つまり、我が盛岡の先人らは、市民生活の利便性向上と、市街地発展のために奔走し、公聴会などを経て、遂に史跡改変の前提となる「史跡指定の解除」を勝ち取ったのだ。極めて健全で、賢明な市政が、かつてこの盛岡に存在した。
市役所は、決して国の出先機関ではなかった。
しかし現在はどうだ。
現盛岡市都市整備部は、史跡指定の妥当性
(【追記】参照)を問う公聴会などをすることもなく、文化庁に言われるままに「国の史跡指定」に盲従し、半世紀以上も昔の都市計画に於ける約定を以て、現に今生きている人々、我々市民の生活を破壊しようとしている。
それは、今日の盛岡市の発展につながった先人の尽力さえも蔑ろにする行為と言えよう。
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【追記】(10月23日)
亀ヶ池の折は公共用地(道路)を目的とした史跡解除であったが、民間の店舗用地を目的とした史跡解除は難しく、依て史跡解除に向けては、この「第四種地区(桜山参道界隈)」の史跡指定の妥当性そのものを問う事になるだろう。
当地域は、かつて指定解除された折の亀ヶ池と違い、その地上部分の遺構は既に失われており、また当時の資料も殆ど残存していない。更に、城跡保存管理計画策定委員会も、地下遺構以外は、文化庁の許可無くとも工事着手可能と答申している。つまり、左程文化的価値に乏しい地域である。依て、改めて国の史跡指定を受ける要件に乏しいとして、見直しを求める事に無理は無いと考える。
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【補足】
自分としては史跡の保存はあくまで「地下に眠る史跡の保存」に留め、地上部分は東大通商業振興会が求める通り、「現状に即した商業地域指定」とするのが最良と考える。即ち、現状及んでいる「地上部分の史跡指定」の解除。ならば商業地域化が、結果大型店舗やマンション建設に繋がるという危惧も無くなる筈。それらの建設には地下部分の破損が伴うから。また、現状の町並みを保存には条例を制定すれば宜しい。
3
もう一つ、都市整備部が桜山商店街の解体の理由としてアナウンスしているのが、その
「老朽化に拠る危険性」
という点である。しかし、それに対しても今年、既に一定の回答が出ていることを紹介しておきたい。
今年7月、史跡盛岡城跡保存管理計画策定委員会より、現状の史跡指定下でも、
「桜山参道地区商店街の建物の内外装改修や、条件付きでの改築などを認める」
(参考サイト:盛岡タイムス)
という要旨の保存管理基準案が示された。その際には文化庁の許可も不要だという。これは、これまで困難だった防火耐震工事などを可能にする、いわばお墨付きである。これを以て、既に市は「解体せねば危険」という論拠を失っているのである。
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最後に。
桜山界隈商店街を支援する署名運動、その目標数値は
「5万人」に設定された。参考までに記せば──この活動は決して市政トップの打倒運動ではないが──これは現市長谷藤裕明氏が初当選した際の得票数(47,432票)を上回る数字である。決して楽な数字とは言えないが、是非とも叶えていかなくてはならない。
しかし、例え5万人の署名があったとしても、その先にも困難は続くだろう。思い出されるのは、同県釜石市の
「橋上市場」である。
桜山同様に終戦後、自然発生的に形成された「橋上市場」は、その名の通り、世界でもこことイタリアのフィレンツェにしかない「橋上の商店街」であった。
だが、毎年のように水害に見舞われるフィレンツェにあって、しかし市民が14世紀から今日まで維持し、今や「世界遺産」の象徴として世界中から観光客を集める「ヴェッキオ橋」とは対照的に、釜石市の「橋上市場」は国の「河川法」に翻弄された挙げ句、
「危険な構造物、違法占拠」
とされ、2002年に姿を消した。その際、存続を求める署名は
「釜石市人口の80%」を越えたが、その声は届かなかった。
(参考サイト:日本すきま漫遊記/Internet Photo Magazine Japan)
現在、それは代替として建設された『駅前橋上市場 サン・フィッシュ釜石』に名を残すが(駅前なのに橋上とはこれいかに)、無論そんな何処にでもある「箱モノ」に、かつての様な珍しい景観を求めて訪れる観光客の姿など無い。
つまり、数多くの声を以て
「希少な景観、地域文化を破壊する代償は計り知れない」という至極当然のことを唱えても、どうにもならない馬鹿が居る、ってことだ。
それを踏まえて、馬鹿の壁、いや馬鹿の「土塁」か──を倒さなくちゃならない、僕らの願いは、その向こうにある。
You see things can change
Yes an' walls can come tumbling down!
──Paul Weller(youtube)