(記&画/minaco.)
その日が現役最後の試合だとゆうのに、やはり何気なく、只のプレシーズンマッチかと勘違いしそうなくらい普通にプレイして、赤毛はピッチを後にしたんであった。きっといつもの赤毛的一ゲームがしたかったのでは。ガチの辞書に花試合の文字はなし。
本当は誰にも気付かれたくないかのように。ただ早く仕事を済ませて家に帰りたいとでも言うように。ファンはそれを知っていて、だからこそ精一杯大声で引き止めようとするけれど、名残惜しいまま見送るしかない。
腕にキャプテンバンドが無ければ、他に特別な事もなくプレイしてるかに見える。赤毛らしくブチかましたゴールも、ボールを持てば「シュートシュート!」とけしかけるOTも。珍しくFKを蹴ってみたけど、「ほらやっぱりFKは蹴るもんじゃない」なんて話してたのかもしれない。キャプテンバンドは手首までずり落ちながら、かろうじて主役が赤毛である事を主張していた。
ベーシックな赤毛のプレイ。右見て左見て、しっかりトラップして、正しいタイミングとスピードでパスを出して。味方の動きを熟知してピッチ広く見渡し僅かなフェイントで敵をいなして、コースを見つけボールを止めて、決して浮かせず真っ直ぐなミドルを撃ち込んで…。そんな風にちゃんと出来たら、フットボールは実にシンプル。でも、それをポール・スコールズより巧く出来る選手がいない。だからフットボールは複雑になる。
勿論、美しく流れるようなパスの合間に、もれなくアバンギャルドな難問をレフリーや我々に投げかけてくるのも赤毛。何故そんなタックルをするのか?何の為にイエローカードがあるのか?赤毛のファウル基準とは一体何なのか?どうしてそんなに痒いのか?何故冬でも雪が降っても半袖なのか?キャプテンバンド恐怖症なのか?プレスに答えたり写真を撮られたりすると魂が抜けるのか?赤毛ジョークとはどんなものなのか?そして何故、こんなに巧すぎるのに引退しなきゃならないのか?
未だに解けない禅問答である。そこに正解がある訳じゃなくて、赤毛とは何者か、赤毛らしいか否か、なのだった。時にフットボールや赤悪魔のセオリーすら超越した赤毛唯物論。赤毛の前に赤毛なし、赤毛の後に赤毛なし。
赤毛なきピッチに赤毛の代わりを探すなどナンセンスだけど、残された自分は試合を観る度いつまでも不毛な赤毛基準で比較し続けるだろう。そこに赤毛が居なければ、フットボールは随分と予定調和で味気ない世界になってしまう。カントナやキーンやギャリーが去ると、一つずつロマンの灯火も消えていった。やがてミラクルも消えて、残るは自由すぎる胸毛のみ。
赤毛最後の日に集められたロマンの欠片たち。ブラジル国王を従えるエリック・ザ・キングはOT王国を静かに見下ろし、キーンさんはいつもの険しい顔でウェルベックのゴールを眺め、バッティはグッドジョバーとしてブックをこなし、ギャリーは何も言わず赤毛の頭を叩き、元敵兵ヴィエラはやはりブーイングを浴びる。赤毛は自らマイクを握る事なく、所在なさげにインタビュウに答えた。
そして家族と共にピッチを一周すると、ゲストらが拍手を贈る中そのまま家路に着く。たったそれだけ。ハームタイムショウや花火もなし。祭りの余韻も人々の惜しむ声も、赤毛を呼び戻す事はできず。
その堂々たる赤毛ぶり。
正しく、100%ポール・スコールズらしいテスティモニアルではないか。