他民族国家アメリカが、そもそもは民族の衝突であるサッカーW杯を楽しめないのは仕様がない事と思う。
五輪などでよく見る光景。アメリカ国民が、彼らの選手たちに送る「USA!」コール、、、あれは、まるで自分たちに言い聞かせているようだ。
「俺たちはアメリカ人だ!」
だって、、、そうでもしないと、自分たちが誰か判らなくなるから。
今、アメリカで野球の世界大会が行われている。
国技だからマイナースポーツ=サッカーの様にはいかない。彼らもまた、ナショナリズムそのものを以て臨まねばならぬ大会。
北米大陸に引きこもり、自分たちのテリトリーの中だけで世界一を決めていた彼らが、否応無く「民族の衝突の場」に引っ張りだされたわけだ。
混沌の世界へようこそ、アメリカ合衆国。
この大会、アメリカは「民族性に根ざしたナショナリズム」をもつ対戦国からの挑戦に晒された。
それはまるで、こう問われているようだった。
「お前たちは何者だ?」
と。
アメリカは答える。
「我々は、自由と平等の国の国民だ」
、、、民族性からその答えを導けないアメリカは、観念を用いて「我々」を語る。
しかし、それが欺瞞でしかない事を世界は知っている。
「じゃあ、あの球審のジャッジは何だい?」
無論、自由と平等を掲げることは正しい。はっきりいって、それを欺瞞たらしめている世界の倫理観こそが恥ずべきものである事は確かだ。
だがアメリカは、あまりに普段「自由と平等」という奇麗事を飾り、それを旗印に他文化を見下している。また、時にそれを自己を正当化する為に使っている。
だから、、、ウケが悪い。
誰だって、自由平等な国家、社会を築きたい。だが、それを叶えられない理由、「歴史の記憶」や「しがらみ」、「世情」といったものを抱えているからこそ、後ろめたさの中で現実を生きている。
なのに、彼ら新興国アメリカはその現実を無視して、他国を「遅れた文化」と、自らを「自由の解放者」と呼ぶ。
本来、勝利にこだわるの意義の無かったメキシコがあの判定以降、アメリカに反抗し、倒したのもそれだ。
不条理な判定への憤りが、ラティーノヒートの魂に火をつけた。まるでWWEのJBL対エディゲレロ戦のよう。
エディならこう言うね。
「おまえら、舐めてんじゃねーつぅの! おいらたちは汚い事はするが、そりゃあ家族のためさ。生きていくためさ! だが、お前らは裕福なアメリカって国は、その“体裁”を守る為に、レフェリーまでグルになってセコ〜い手を使いやがる! 許さねーっつうの!」
Viva La Raza!!!(涙)
つまり、この大会でアメリカに投げらつけられたボールはこう言っているのだ。
「星条旗の下に隠れた君たちには、世界が見えていないんだよ。君たちも、世界の場に出て来れば判る。ほら、イラクで今君たちの兵士が直面しているように。。。」
例えばW杯サッカーは、民族性を世界に示す場でもあるが、同時にその民族性を自分たちが確認する場でもある。
ならばこの野球大会で、アメリカ人は何を見、思ったのだろう。
「結局、アメリカのフェア精神って何だったんだろう? 所詮、内向きの、、、ただの虚飾にすぎなかったのではないか?」
彼らが決して疑わなかった信念が、少しずつ壊れていく?
でも、そのアメリカのアイデンティティ崩壊を救うのも、結局はアメリカの「自由と平等」を頑に信ずる精神によってかもしれない。
例えそれが今は建前と判っても、ならばその建前をより現実にマッチさせていく事だって可能なはずだ。彼らには。アメリカ国民は、少なくともあの判定に対して何らかの言い知れぬ思いを持っただろう。そして僕はアメリカを成長する国だと思っている(最近は停滞しているけれど)。
彼らには人民の意思でアメリカという国を創ったという意識がある。ならば人民の意思で過ちをも正していけるはずだ。民族的にカテゴライズされ、民族=国家となった国には持ち得ない精神、、、そういう逞しさがアメリカにはある。
持つべき建前すら放棄してしまったサッカー界。あまりに不正に慣れっこでクソ判定が野放し状態、、、開催国が絶対有利なW杯、偏向判定やあからさまな不正で勝っても恥知らずなまでにそれを省みる事も無いこの競技を長年見てきたものとしては、例え建前でも「平等=フェア」という言葉を信じようとする国は羨ましく思えるのだ。
無論、サッカーファンだもの、そういう胡散臭さだって愛している。
トッティが不条理な退場になったり、あの時ブラジル選手はアルゼンチン人に睡眠薬を飲まされていたのだと知っても、
「それもサッカーさ。それが世界で戦うってことさ」
と僕は思った。でも、、、やはりどこかで切なさはあるのだ。南米サッカーに染まり過ぎて、その不条理な世界を斜めに見て愉しんでいる自分が、ダーティーな世界の傍観者を気取っている自分が、時折怖くなるのだ。(特にプレミアリーグの正々堂々とした戦いを見た後には)
話を戻す。
今後、この野球大会がどうなっていくのかはまだ不明な点が多い。世界一の体裁を重んじる彼らに、自分たちが恥をかく可能性のある大会を続ける気があるか、、、は、ちょっと疑問もある。
でも、そのリスクを恐れず世界の混沌の場に身を置く腹をくくったならば、その時こそアメリカは本当に世界の一員となったと言えるだろう。
さて、アメリカと同様に、国旗大好きなのがブラジル。やはりここもまた他民族国家、それゆえと思う。
ブラジルはサッカーの世界に足を踏み入れた事で、アメリカよりも早く自分たち国民の共通したアイデンティティを見つけた。
それは、
「情熱=パッション」。
これはアメリカの建前として掲げたアイデンティティとは違い、ペレやジーコ、そしてカーニバルを通して自分たちが「発見」した共通項だ。だから、これは本物。
そしてブラジルは、その情熱というキーワードで互いを認め合い、人種差別の壁をも乗り越えた国である。誰もがペレの情熱に心を揺り動かされ、その肌の色がどうこうなんて問題は吹っ飛んでしまったのだ。(でも世界一貧富の差が大きい国ってのは一向に解消されないけど)
「ブラジルはなぜサッカーが強いの?」
と問われたら、
「他民族国家としての“多様性”という有益面を持ちながら、情熱という一つの観念で結ばれた国だから」
と答える。僕は。
そして忘れちゃいけないのはね(何故かブラジルを語るときはセルジオ口調になるのだ)、ブラジルはサッカーが強いだけではなく、世界中から愛されている国でもあるってこと。
だからアメリカはチャンスなんだ
この野球大会、続けていこうよ。国家がその正体を晒しながらぶつかり合い、そして判り合えるのはスポーツだけなんだから。
ワールドスポーツへの参画を通してアメリカが、自分たちの真に誇るべきアイデンティティを見つけ、「フェア」とかいう建前を大事にしながらも過度に固執せずに世界を理解し、、、そしていつの日か世界中から愛される国となる事を祈って止まない。
ついでに、そのアメリカの尻馬に乗っている日本という国も、ね。
余談。
タイガーウッズが登場した時、彼ならばアメリカで、ペレの役割を担えると思った。彼が大統領になったら嬉しい。戦争の英雄を何人も大統領にしてきた国、ならばグリーンジャケットの英雄にもその資格はあるはず、、では?
(絵/minaco、記/なるほ堂)