(記/なるほ堂)
「すっげー」
(満男のフリーキックを目の当たりにした少年)
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【オガサFC続報(6月3日付、岩手日報夕刊)】
一般に、応援するプレーヤーの「選手生活の終わり」ってのは、ファンにとっては「応援生活の終わり」を意味する。彼らがシューズを置く瞬間、何年にも及ぶ「自分の生活の一部分」も消えてなくなるのだ。
小笠原満男。彼もやがては一個人となり、「俺の満男」では無くなる。いつかの日か「俺の満男」は、思い出の中だけで走り続ける……そんな切ない思いを浮かべてしまう事も、過去にはあった。しかし、満男は言う──
「岩手のために自分にできることがある」
自身の名を冠した『オガサFC』のアドバイザーとして帰省した彼の言葉。この上ないこの言葉を替え歌にすると(←意味不明)、こうだ。
♪自分の大きな夢を追うことが 今までの満男の仕事だったけど
岩手を幸せにする それこそが これからの満男の生きるしるし
満男はこれからも、僕らと共に歩む。あの日の大船渡高校の校庭、ただ風の中にたたずんで、君はやがて見つけていった。ただ風に凧を預けて、君は鹿島アントラーズの選手になっていった。その選手時代が「青春」であり、引退後が「影」であっても、満男の『青春の影』はこの岩手の地に永遠に続く、長い一本道の上にある。『オガサFC』とは、彼が育った、そして彼旅立ちし後も僕らが住むこの街で、齋藤先生の志を継ぎ、その思いを次代へ繋げていく僕らへの約束──
つまり僕は、いつまでも満男を応援出来るのだ!(……他県の満男ファンの皆様、許せ!)
「俺の満男」率いる『オガサFC』の、つまり「俺の満男の子供たち」の言葉──
「来てくれてびっくりした。同じボランチなので視野の広さを学びたい」
「ドリブルもパスもすごかった。一緒にプレーできて楽しかった」
中村司代表の言葉──
「守備の意識が低かった選手が(小笠原選手を見習って)ディフェンスを頑張るようになった」
思えば満男の苦しみの大概は、岩手県民特有の「業」に根ざしていた。それが判るからこそ、僕ら県民は彼に自分を重ね、同様に苦しみ、同様の「もどかしさ」を味わってきた。ほんの小さな出来事に僕らは傷ついて、しかし僕らは、たえまなく降りそそぐこの岩手の雪のように満男を愛してきた。彼の夢は、僕らの夢。それは、僕にとって最早どうでもいい『日本代表』という名の岡田選抜チームが南アフリカに行く事よりも大切なこと。彼らは彼らの道を往くがいい、僕はこれからも満男の『心の旅』の同伴者。彼がいつか「今日から僕はただの満男」と歌っても、今日から“も”、僕はただの満男サポーター。彼と同じ道の上に、生きるしるしを刻んでいく。
されど、満男の『虹とスパイクの頃』は、まだ終わらない。
満男の言葉──
「あこがれを感じてもらえる選手でありたい」
その為にも「全て勝つ」という誓い、果たして貰わなくては。三連覇、そしてクラブW杯制覇。我侭はサポーターの罪、されど、それを赦さないのは選手の罪。
鹿島アントラーズの戦いは、「中央の巨大権力による画一的文化支配」との戦いでもある。チームに九州東北由来者が多いのは、彼らがかつて支配者に「鬼」と呼ばれた「蝦夷、熊襲」の末裔である故と、筆者は勝手に疑わない。彼らは、我ら同じ血騒ぎし者の代表として、その怨念を信念に変え、鬼の角を「鹿の角」に変え、この国の文化を支配したがる者たちの「安穏」に風穴を空けるのだ。即ち、自分にとっては彼らこそが「代表チーム」である。
我が郷土に、畠山太助という先人が居る。
「ペリー提督の黒船に人の注意が奪われている時期に、東北の一隅で、もしかすると黒船以上に大きな事件が起っていた。かなり長期間にわたって、外部に対して事実を伏せていたので、地方的の事件であり、一般には知られずにいた」(大仏次郎『天皇の世紀』)
江戸末期、一揆史上画期的とされる『藩主否定』の戦いに勝利した『南部三閉伊一揆』。その指導者であり、1万6千人の民衆を率いて一人の犠牲者も出さず、封建的日本史の中にあって、一種の『市民革命』を成功に導いた人物が岩手田野畑村の百姓、太助である。彼の言葉──
「衆民のため死ぬる事は元より覚悟のことなれば今更命惜しみ申すべきや」
リーダーとしてあの日、靭帯が切れても仲間の為に戦い続けた満男の姿に、僕らは郷土の先人の姿を見た。そして今、日本サッカーが目論む中央集権への抵抗者として、郷土の誇りを新たに軍団の領袖として立つ姿は、かの『阿弖流為(アテルイ)』さながらである。
昨今、阿弖流為を「中央コンプレックスの裏返し」的な腹で「スーパースター化」を図る向きもあるが、そういうのは天皇神話や聖徳太子神話を創出してきたヤマト文化のスターシステムに倣った「作為」であり、ある意味矮小化作業である。云うならば阿弖流為は蝦夷という「家族」の家長である。斯様な「作為的スター化」を嫌う満男が、飽くまで鹿島アントラーズという「家族」の家長としてピッチに在る姿と等しく。
思えば満男が、その戦いの地を鹿島に選んだのは、必然であった。坂上田村麻呂率いる侵略者たちとの闘いに倒れた『悪路王(阿弖流為)』の首級は今、茨城県鹿島市鹿島神宮の宝物殿に、静かに眠っている。
そして、その戦いが終わったならば、彼ら郷土の先人が果たせなかった「安息の日々」を求め、帰って来るが良い。君の実家へ続くあの道を、足もとにたしかめて──
大きな海を、川を越えて、僕らのちっちゃな街まで帰って来る。
次の岩手っ子たちに託すために──そうだよ、誰にもあげない『魔法の靴』をさ。
FIN
/タレコミ/
オガサFCの公式サイト内『アドバイザー小笠原満男選手 5月29・30日に来県!!』と『小笠原選手訪問記録』に今回の帰郷の模様が公開されております。なんか面白いので、右の『LINK』からどうぞ!