(記/minaco.)
その夜、激しい雨が降ったモリオカ。先に満男の件だけで充分なダメージだったけど、オランニェ発表でトドメを刺され……せめてどっちか良い知らせが欲しかった。ちょうどジロ・デ・イタリア真っ最中であり、自転車レースに例えれば鳩を轢いたり犬を轢いたり未舗装のぬかるみや水溜りで落車したりして、ワタシの心はリタイアです。
それでも、もう落ち込んでる場合じゃございません。だって、
・何も知らずに宇宙に飛ばされたライカ犬よりはマシさ(@『マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ』)。
・ワールドカップなんてどうせ酸っぱい葡萄に違いない(@イソップ寓話)。
・6月はツールもウィンブルドンも全英ゴルフもある。プロレスリングNoahのKENTA選手の復帰も6月だ。楽しみだなあ6月!
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さて、これにてルートの代表キャリアは完全に終しまい。オランニェでの通算得点は64試合で33点、クライファートに次ぐ歴代4位。けれど、輝かしい記録より辛い記憶の方が強く甦る。ご存じない方も多いと思うので、ざっと振り返ってみます。
【2000年】PSVからユナイテッドへ移籍が決まった直後、彼は右膝十字靭帯断裂の大怪我を負い、移籍も地元開催のユーロも棒に振る。尤も当時はクライファートがエースだったので、代表入りしてもルートの出番は少なかったと思われる。
【2002年】日韓W杯にはオランニェが出場を逃す。クライファートとルート、生年月日が同じでも全く対照的な2人のコンビネーションは機能しなかった模様。
【2004年】ポルトガルで開催されたユーロには、堂々エースとして出場を果たす。オランニェの鬼門とされたPK戦で見事スウェーデンを破り、エドさんの神懸かりなセーブとルートのゴールによりベスト4へ進出。この大会では4得点を挙げる。準決勝でポルトガルに敗れたものの、公私共に最も充実した年。(ちなみに、多分この頃からエドさんと親密に)
【2006年】ファーギーとやらかしした後ドン底のままドイツW杯に希望を託したが、やがて憧れのファン・バステン監督とも衝突。決勝Tではベンチに置かれたままプレイする事を許されず、オランニェはベスト16で敗退。ワールドカップでは通算1得点に終わる。
【2008年】ファン・バステン監督との仲はこじれ、なかなか折り合いが付かなかったものの、ユーロ08本大会までには何とか和解。フランス、イタリアを撃破し期待は膨らむが、ベスト8でロシアとの延長戦に散る。チームで最初と最後のゴールを挙げたのは、ルートだった。この後一旦代表を引退し、また膝の手術を経て復帰を目指し……そんな訳で現在に至る。
☆オランニェの思い出ダイジェスト映像は
こちらに。
〜後編に続く〜