かつて荒川静香が世界選手権で優勝した時、見ていてボロボロと泣いてしまった。結果に、じゃない。演技そのものの美しさにヤラれてしまった。
あのときの荒川は神の領域で滑っていた。
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その後、フィギア界は神の居るべき場では無くなった。
点取りゲーム。そもそもが競技なのだから、このル−ル変更の善し悪しは一概には言えない。
だが今のフィギア界で荒川を滑らせるということは、則ちゴッホに美大の試験を受けさせるようなもの、あるいはパバロッティにカラオケ採点マシーンで歌わせるようなものだ。偉大な芸術に対する侮辱である。
しかし五輪直前、女神・荒川は敢えて我々俗物の棲む“下々の世界”へと降りた。昨年の12月、芸術家としての荒川を完成させたタラソワコーチの元を離れ、得点の採れる滑りを教えられるモロゾフコーチに師事。
そしてわずか三ヶ月、下界の採点方法に合わせた演技を練習しただけで金メダルである。彼女の顔には、
「どーよ。ざっと、こんなもんよ。」
と書いてあるようだった。
こんなにも強い芸術家を、他には知らない。
長野五輪から、ずっとフィギア界を「荒川×村主」のライバル・アングルで追ってきた。この二人の闘いはガチ(
参照 )だ。(だから最近の「ミキティ×マオ」ギミックには今イチ乗れない)そして今日、二人の戦いが結実した瞬間を見た。
村主はメダルに届かなかった。会場のノリを見ても、やはりあの「情緒」みたいなものは世界には届かなかったのかもしれない。でも彼女無くては荒川の金メダルは絶対に無かった。それだけは言える。
キスクラで村主はいつも「アイ ラブ ユー×××!」と叫ぶ。僕に言っている訳でないのは承知だが、僕からも「アイ ラブ ユー!」を贈るぞ。
そして荒川。この日の演技は競技としてはパーフェクトだったけれど、彼女の芸術性の半分くらいしか感じなかった。やはり天上の人に、この下界は似つかわしくない。イナバウアーを評価しない世界になど、長居は無用。金メダルを胸に、どうか再び天上界にて神の滑りを。
安藤は残念だったけれど、彼女の背負ってきたものの重さと立派に戦ったと思う。
今回のトリノでの多くの日本人選手たちの敗因には、長野五輪以降の注目度の低下、そしてそれに伴う予算不足が上げられている。その中で日本フィギアは協会上げて「ミキティ=天才(美?)少女」アングルを組み、多くのTV露出、広告収入を得て強化に充てた。宮里藍や福原愛の例が示す通り、マイナー競技の「天才少女出現アングル」はもの凄く有効なのだ。
だが、その犠牲として彼女は「やっかみ」や、実力以上の期待を背負い込まされる羽目になった。天才少女アングルはフィギア界にとっては期待以上の効果をもたらしたが、安藤を幸せにはしてくれなかった。
今後、安藤が自分に何を求めるのかは分からない、でも、彼女が今後更に高い世界を目指して競技を続けていくのならば、もっと暖かいサポートが必要だと思う。協会も、フィギアファンも。
安藤を銀盤の生け贄で終わらせてはならない。
ともあれ、当初は散々煽ってたメディアが「メダルなんか関係ない。競技者がベストをつくせばそれでいいじゃないか」と、柄にも無く言い訳めいた、、、ぬる〜い慰めモードに入ってたところ(そんなのハナから当然のことでしょ! 負けたことの「言い訳」として使うべきものじゃない!)での、金メダル。痛快です。
やっぱり、金メダルはいいもの。メダルの可能性が僅かにでもある選手たちが、それを目指して戦っている以上、メダルレースを切り離して「努力」云々だけで語るのは不可能だ。敗者には慰めも、もちろん怒りもいらない。
ただただ「残念だったね、悔しいね」って、一緒に泣けばいいんだと思う。競技者に何かしらを託して見てしまう我々俗物にとっては難しいことだけど、その悲しみや苦しみを共有することこそが大切。
そして喜びもまた。
荒川の胸に下がった金メダルは、そういう彼女の周囲の人たちの思いがもたらした金メダルだと思う。
だからこそ、輝く。
でも、、、あれって観光地の売店にある、大判の
五円玉チョコレート にしか見えないんだよね。どうしても。。。
(記/なるほ堂、絵/minaco)